【意味ぷ】非日常は求めるだけじゃ何も変わらないという話

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おっす、悠才です。

突然ですが、皆さんにとって「非日常」とは何でしょうか?

読んで字のごとく日常ではない。

これはつまり「変わらない日常と相対する奇異的なものや状況」と定義することができると思います。

本記事では、私が日々感じている「非日常」について適当にまとめていこうと思います。

「意味わからない…」と感じるかもしれませんが、ぜひご一読ください!

非日常を感じる閾値は人によって違う

非日常という概念は、人それぞれの意識や考え方、人生経験によって大きく変化してきます。

それはこの人のレベルが高いとか低いとかそんな次元の話ではありません。

ある人にとっては非日常的な出来事が、

別のある人にとっては日常的な出来事であり、

また別のある人にとっては端から見ると日常的な出来事のように見えるが、当の本人は非日常性を感じている。

このように非日常とは複雑怪奇な代物なのです。

 

ここで1つ例を挙げてみましょう。

例え話がわかりにくいで有名な私です、心して聞いてください。

いま目の前にアゲハ蝶が飛んでいるとします。

それがA、B、C、わたしの4人の目の前を通り過ぎていきました。

そのときの4人の心情は以下の通りです。

あっアゲハ蝶だ!初めて見たなーきれい(わくわく)

A

悠才

Aはアゲハ蝶の存在に対して非日常性を感じています。

通常では日常的に見られるアゲハ蝶ですが、Aはその存在を認識(経験)したことが無かったのでしょう。

見た瞬間に「あっアゲハ蝶だ!」と発しているので、存在そのものは知っていたが実物を体験したことが無かったというタイプです。


・・・(気づいてすらいない)

B

悠才

Bにとってアゲハ蝶は日常的な存在です。

それは意識するまでもなく日常に溢れた存在なので、目では蝶々を見ていますがそれを情景の一部として認識しています。

つまりBにとってこのアゲハ蝶という生き物は存在しないも同然で、あくまで景色の一部としてそこにあるだけなのです。


このアゲハ蝶、見たことない羽根模様しているねぃ。

おもしろいなぁ(眼鏡ぴかーん)

C

悠才

Cはアゲハ蝶に対して特別な感情は抱いていません。

ですが、このアゲハ蝶の羽根模様に特徴を見いだし自分の経験を通じて非日常性を感じています。


お花畑で 昼寝をすーれば 蝶々が飛んできて キスをする、ヘイ!!(ニコニコ)

わたし

悠才

わたしは「蝶々が飛んでいる」というこの状況をアルプス1万尺の曲と結び付けて楽しんでいます。

逆に言うと、アゲハ蝶という個別の特徴にはフォーカスしていません。

これは一見Cと同じ日常を非日常に変換しているようにも見えますが、その種類がまったく異なります。

Cは外的な特徴に非日常を見出していますが、私の場合は自分の内にある似た知識や経験を連想ゲームのようにつなぎ合わせて、日常的なものごとに勝手に付加価値をつけているのです。

常時そうしているわけではないのですが、蝶々が飛んでいるとこういう思考に陥ってしまいます。

つまり、連想ゲームをすることによって自分の日常に対し自発的に意識を向けているのです。


非常にまどろっこしい表現になりましたが、

要するに「その人の経験や考え方で同じ状況でも異なる解釈が生まれる」ということです。

一人一人が感じる非日常(感)はまさにこれで、その人の経験や性格に強く依存しています。

しかしここで感じていただきたいことは、非日常は意識的に作り出せるということです。

大事なことは、日常に意識を向けること。

その余裕を持たせない現代社会が悪い気もしますが、よくよく考えてみると世の中は奇跡や疑問に満ち満ちています。

非日常は年齢を増すごとに感じにくくなる

大人になるにつれて経験や知識が蓄積されていき、物事をカテゴライズするのが上手くなるので、子供の頃に比べると非日常的なわくわくを感じる機会が少なくなります。

それが悪いとは言いません。

しかし私は、自分の幼き頃から持っている童心を大切に生きていこうと心に決めているので、その状況には強い危機感を覚えるのです。

特に『余命10年』という小説を読んだときはそのことを強く感じました。

日常を惰性的にそして無機質に生きるより、その日常の中にわくわくを探し出していこう。

この本を通じてそんな意識が強く芽生えました。

もちろん常日頃からできているわけではありませんが、意識するように心がけてはいます。

そうすることで理論とかではなく、体感としてこの世界を感じることができる。

常識とか損得勘定とかそういう色んなリミッターを外し、一つの物事を自分なりに観察してみると色々な思いが湧き出てきます。

 

先ほどのアゲハ蝶の例で言うと、このアゲハ蝶、実はわたしにキスをしようとしているのではないか?

そんないつもは感じない斜め45度からの発想を感じると、すごい微笑ましい気持ちになるとともに、日常の中に非日常世界を創造(想像)することができる気がしています。

この創造(想像)力は色々な経験をしている大人だからこそ、バラエティに富んだ面白い発想ができると思っています。

先入観を介さずに物事の可能性を無限大と捉えて、ぜひ日常に目を向けてみてください。

そうすれば、これまでの世界が大きく違って見えてくるかもしれませんよ。

▼ちなみに『余命10年』の感想記事も書いているので良ければどうぞ。

【感想】小説『余命10年』を読んで再認識した死という概念の日常性

全ての人は非日常を求めている

話がだいぶ意味わからない方向に脱線している気が….。

めんどくさいのでこのまま行きますね。

最後に言いたいことは「すべての人は非日常を求めている」ということです。

人と話しててよく聞くのが、

  • いつか〇〇に行ってみたいんだよね
  • 〇〇やってみたいなぁ

という言葉。

この言葉の本質には、自分の日常には無い刺激、自分が体感したことのない経験がしたいと言う意味が込められていると思うのです。

ですが、多くの人が欲して終わり。行動には移しません。

やれ、お金が無い。

やれ、時間が無い。

そういうやらない理由を作って、結局やらないまま生涯を終えることも少なくないと思います。

そんな人を見ると、人生1度きりなのにすごく損な生き方をしているなと感じずにはいられません。

またそういう人に限って、未知なものに対するリスクを大きく見積もり、自分がいま抱えているリスクは小さく見積もる傾向が強い気がします。

 

色々な選択肢を熟考し、自分が何を大切に生きていきたいのか。

それを自分自身の尺度で考えていけば、自分の人生を主体的に生きられるはずです。

そのうえで行かない、やらないを選択するならそれはそれでよいと思います。

ですが、人間は非日常を求める生き物。

モノクロの毎日よりカラフルな世界を願う生き物です。

それを叶える為に先ほどお話した、日常の中に非日常を創造(想像)する意識づけが必要になってくると思うのです。

 

あなたの人生の主人公は、誰がなんと言おうとあなたしかいません。

あなたの人生がロールプレイングなのか、アクションなのか、はたまたマサラタウンのサトシなのか、それはあなたが決めることです。

自分の人生を章ごとに区切って、

今回はこのゲームだな、次はファイナルファンタジーをプレイしよう。

そんなゲームカセットを選ぶように人生を生きられたら無性にわくわくしてきませんか?

もしかしたら私だけかもしれませんが、何でもできそうな気がしてきます。

 

「非日常」を求めるなら、願うだけでは何も変わらないし何も見えてきません。

主体的に考え、能動的に行動を起こし、変わらぬ日常にぼーっとでも良いから意識を向けてみる。

そうすることで「自分の見えている世界は大きく変わってくる」と、私は信じて今を生きています。

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